長野県の諏訪湖のほとりに、全国およそ二万五千社ともいわれる諏訪神社の総本社、諏訪大社があります。その祭神が建御名方神(たけみなかたのかみ)です。
この神には、日本神話のなかでもきわめて珍しい特徴があります。戦いに敗れ、逃げ、そして「この地から出ない」と誓った神であること。神話の主役が勝利ではなく敗北によって記憶されている例は、そう多くありません。
そして、その神が動かないと決めた土地は、はるか縄文の昔から日本を代表する石の産地でした。この記事では、建御名方神という神を、諏訪の石という視点から読み解いていきます。
建御名方神とは
建御名方神は、諏訪大社に祀られる神です。諏訪大社は諏訪湖をはさんで上社(本宮・前宮)と下社(春宮・秋宮)の四宮からなり、上社に建御名方神、下社に妃神である八坂刀売神(やさかとめのかみ)が祀られています。
「タケミナカタ」という名の由来には諸説あり、「ミナカタ」を「水潟(みなかた)」と解して水に関わる神とみる説、九州の宗像(むなかた)との関連を想定する説などが知られています。定説はありませんが、いずれも水や湖と結びつけて理解されてきた点は共通しています。
信仰の性格は、時代とともに層を重ねてきました。
もともとは風と水の神であり、農耕の神でした。諏訪の風は稲の実りを左右します。そこに、狩猟の神としての顔が加わります。諏訪大社が発行してきた「鹿食免(かじきめん)」は、仏教の殺生戒が広まった時代にあって狩猟や肉食を許す免状として知られ、山に生きる人々の支えとなりました。
さらに中世以降、軍神としての性格が前面に出ます。武田信玄が諏訪明神を篤く信仰したことはよく知られ、諏訪の神は関東・東北を中心に武家層へ広がっていきました。全国に諏訪神社が分布する背景には、この武神としての信仰の広がりがあります。
国譲り神話における建御名方神
建御名方神が登場するのは、「古事記」の国譲りの場面です。
力くらべに敗れる
高天原から派遣された建御雷神(たけみかづちのかみ)が、大国主神に国を譲るよう迫ります。大国主神は子である事代主神(ことしろぬしのかみ)に判断を委ね、事代主神はこれを承諾しました。
そこへ、もう一柱の子である建御名方神が現れます。彼は建御雷神に力くらべを挑み、その手を取ろうとしました。
ところが、つかんだ手は氷柱に変わり、さらに剣へと変じます。逆に建御雷神が建御名方神の手を取ると、まるで若葦を摘むようにたやすく握りつぶし、投げ捨てたと語られます。
「この地を出ない」という誓い
建御名方神は逃げました。追われ、追われて、たどり着いたのが科野国(しなののくに)の州羽海(すわのうみ)。現在の諏訪湖です。
そこで追いつめられた彼は、殺されそうになりながら、こう誓います。この地から出ない。父・大国主神と兄・事代主神の言葉に背かない。葦原中国は天つ神の御子に献上する、と。
この誓いによって、建御名方神は命を許されました。神話における彼の物語は、ここで終わります。
敗北と、その土地への封印。これが記紀神話が語る建御名方神のすべてです。しかし諏訪では、この神は封じられた神ではなく、土地を守り続ける主神として、千年以上にわたって祀られてきました。
なぜ「日本書紀」に建御名方神は登場しないのか
ここで、あまり語られない事実に触れておきます。
建御名方神は「日本書紀」の国譲りの記述には登場しません。
「日本書紀」における国譲りは、事代主神が服従を表明した時点で決着します。力くらべも、諏訪への逃走も、そこにはありません。同じ出来事を語りながら、二つの正史のあいだにこれほど明確な差があるのは注目に値します。
この差をどう読むかについては、研究者のあいだでも見解が分かれています。代表的な見方を挙げれば、次のようなものです。
ひとつは、諏訪という土地に古くから存在した独自の神が、記紀の編纂にあたって出雲の系譜に組み込まれたとする理解。諏訪の信仰はヤマト王権の神話体系よりはるかに古い層を持っており、それを中央の物語のなかに位置づける必要があった、という見方です。
もうひとつは、「古事記」が東国支配の正統性を語るために、この挿話を必要としたとする理解。国譲りが出雲だけで完結せず、信濃にまで及んだと語ることは、支配の及ぶ範囲を示すことでもあります。
いずれにせよ確かなのは、建御名方神という神が中央の神話にとって、扱いに揺らぎのある存在だったということです。そしてその揺らぎこそが、諏訪という土地の特異さを逆に照らし出しています。
母とされる奴奈川姫と、糸魚川の翡翠
建御名方神の系譜には、もうひとつ興味深い伝承があります。
その母を、奴奈川姫(ぬなかわひめ)とする説です。「古事記」は大国主神が高志国(こしのくに/現在の北陸)の沼河比売のもとへ求婚に赴いた物語を伝えていますが、二神のあいだに建御名方神が生まれたとは記していません。母を奴奈川姫とするのは、後世の系譜書や諏訪に伝わる伝承によるもので、記紀本文に直接の根拠はない点は押さえておく必要があります。
ただ、この伝承が石を扱う者にとって意味を持つのは、奴奈川姫が糸魚川の姫神であるためです。糸魚川は、縄文時代から翡翠を産出し続けてきた日本唯一の本格的な翡翠の産地。姫の名にある「ぬな」は玉を意味するとされ、姫そのものが翡翠と分かちがたく結びついた存在として語られてきました。
つまり伝承をたどれば、建御名方神は翡翠の姫神の子として、黒曜石の地に鎮まった神ということになります。
諏訪の先住神・洩矢神との争い
諏訪には、記紀とは別系統の、土地に根ざした伝承が残されています。
なかでも知られるのが、洩矢神(もりやのかみ)との争いです。諏訪明神がこの地に至ったとき、先住の洩矢神が鉄輪を手にして抗い、明神は藤の枝を手に戦って勝利したとされます。
注目すべきは、その後です。敗れた洩矢神の後裔とされる守矢氏は排除されず、神長官(じんちょうかん)として諏訪の祭祀を担い続けました。外から来た神と、土地に元からいた神。その両方が並び立つ構造が、諏訪の信仰の根幹にあります。
諏訪にはさらに古い層として、石や樹に降りるとされるミシャグジの信仰があり、御柱祭に代表される独自の祭祀が今日まで続いています。この土着の信仰と石との関わりについては、別の記事で詳しく扱っています。
▶ 諏訪大社と黒曜石|神の山とミシャグジ、縄文の石の信仰を読む
建御名方神が動かなかった土地は、石の産地だった
ここまで見てきた建御名方神の物語を、いったん石の側から眺め直してみます。
諏訪から霧ヶ峰、八ヶ岳にかけての一帯は、日本を代表する黒曜石の産地です。北海道の白滝や十勝、伊豆、隠岐、九州の腰岳や姫島などと並ぶ、火山国日本の主要な原産地のひとつに数えられます。
なかでも霧ヶ峰の北東端、長野県長和町の星糞峠(ほしくそとうげ)には、縄文時代の黒曜石採掘遺跡が残されています。「星糞」とは黒曜石を指す地元の方言で、星のかけらが降り積もったという言い伝えのあった一帯には、実際には縄文人が採掘の際に残した割りくずが広がっていました。斜面には直径十メートルほどのクレーター状のくぼみが二百基ほど確認されており、これらはすべて原石を掘り出した竪坑の跡です。2001年に国の史跡に指定されました。
そして重要なのは、その規模です。ここから産出した黒曜石は、旧石器時代から縄文時代にかけて、近畿から東北にいたる広い範囲へ供給され続けました。諏訪は、日本列島の石の物流の中心地だったのです。
神話が縄文の記憶をそのまま伝えている、と言いたいわけではありません。両者のあいだには数千年の隔たりがあります。
それでも、こう並べてみると、ひとつの構図が浮かび上がります。
翡翠の産地・糸魚川と、黒曜石の産地・諏訪。日本の二大石材産地が、建御名方神という一柱の神をはさんで向かい合っている。
しかもこれは伝承だけの話ではありません。縄文時代、糸魚川の翡翠は姫川をさかのぼるルートで信州へと運ばれ、長野県内の縄文遺跡からは糸魚川産の翡翠製大珠が出土しています。翡翠と黒曜石は、神話の系譜が語るよりはるか以前から、実際の交易路で結ばれていました。
古代の日本において、石がどれほど重い意味を持っていたか。それは玉と祭祀の関係にも表れています。
▶ 玉に宿る神々|日本神話が伝える翡翠と祭祀の物語
▶ 出雲と勾玉の物語|神々の国はなぜ玉造の里になったのか
御柱|掘る土地に、立てる祭り
諏訪の信仰を語るとき、避けて通れないのが御柱祭です。
正式名称を「式年造営御柱大祭(しきねんぞうえいみはしらたいさい)」といい、七年目ごと、寅と申の年に行われます。前回は2022年、次回は2028年。上社本宮・前宮、下社春宮・秋宮の四宮それぞれに四本ずつ、計十六本のモミの巨木を山から曳き出し、社殿の四隅に立てます。
起源には定説がありません。ただ、社殿の四隅に柱を立てるという形式そのものが、社殿建築よりも古い祭祀の記憶をとどめているとする見方があります。建物ではなく柱が主役である祭り。それは、神が社に住まうより前の、神の依り代としての柱の時代を思わせます。
ここでひとつ、諏訪という土地の姿が浮かびます。
縄文の人々は、この土地の山を掘って石を取り出しました。そして現代に至るまで、この土地の人々は山から木を運び出し、立て続けています。掘ると立てる。方向は正反対ですが、どちらも山と人との関係を確かめ直す行為であることに変わりはありません。
建御名方神が「この地を出ない」と誓った土地では、いまも人が山へ入り続けています。
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諏訪御柱 御神木(証明書付き)
諏訪で伐採された御柱御用材を加工した「木札」護符として使っていただけます。。首から下げても、御守りとして持ち歩いても、神棚に置いていただいても良いです。
諏訪の黒曜石を持つということ
黒曜石は、マグマが急速に冷えて固まった天然のガラスです。結晶をつくる時間がなかったために、割れ口が貝殻のようになめらかな曲面を描き、縁は刃物のように鋭くなる。縄文人が石鏃や石匙の材料としてこの石を選び抜き、山を掘ってまで手に入れようとしたのは、この性質のためでした。
道具として、これ以上のものがなかった。
黒曜石が持つ深い黒と、光にかざしたときのわずかな透け。手にしたときの、ガラスとも石ともつかない独特の質感。それは装飾のために磨かれた美しさではなく、生きるために必要とされた石が、たまたま持っていた美しさです。
諏訪の黒曜石を手にすることは、建御名方神が動かないと誓ったその土地の記憶に触れることでもあります。神話が語られるよりはるか昔から、この石は人の手を渡り、列島を旅していました。
御柱の御神木が「いま続いている諏訪の象徴」だとすれば、黒曜石は「はじまりの諏訪の象徴」です。EARTHでは、そのどちらもお取り扱いしています。
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諏訪黒曜石をEARTHで見る
EARTHでは、産地証明書付きの本物の諏訪黒曜石を取り扱っています。
SUPERVISOR’S NOTE
監修者より|日本糸魚川翡翠協会 会長
本文では、糸魚川の翡翠が信州へ運ばれたことに触れています。 しかし石の動きは、一方通行ではありませんでした。 糸魚川の長者ケ原遺跡からは、翡翠だけでなく諏訪産とみられる黒曜石が出土しています。逆に諏訪・霧ヶ峰周辺では、糸魚川産と考えられる翡翠が確認されている。石は双方向に動いていました。ただし、翡翠と黒曜石が直接交換されたと考古学的に証明されているわけではありません。暮らしを支える道具の石と、磨かれて玉となる特別な石。性格のまったく違う二つが、数百キロを隔てて互いの土地で見つかる。その事実だけで、縄文の列島が想像以上に広くつながっていたことが分かります。

