諏訪の黒曜石と糸魚川翡翠|縄文時代、石が双方向に動いた道

翡翠の原石

縄文時代の日本列島には、遠く離れた土地から運ばれてきた石がありました。

その代表が、諏訪の黒曜石と糸魚川の翡翠です。日本糸魚川翡翠協会の会長から、この二つの石をめぐる寄稿をいただきました。

縄文時代の日本列島には、遠く離れた土地から運ばれてきた石がありました。その代表が、諏訪の黒曜石と糸魚川の翡翠です。

黒曜石は、割ると鋭い刃ができるため、石鏃や石器に用いられました。一方、糸魚川の翡翠は、硬く美しい石として磨かれ、大珠や玉に加工されました。

用途も、扱い方も、まったく異なる二つの石です。片方は日々の暮らしを支える実用の石、もう片方は身を飾り、祈りを託す石。

その二つが、互いの土地で見つかっています。

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糸魚川の遺跡から出た、諏訪の黒曜石

新潟県糸魚川市大野。姫川の下流、標高80メートルほどの丘陵の上に、長者ケ原(ちょうじゃがはら)遺跡があります。

13.6ヘクタール、東京ドーム3個分におよぶ北陸最大級の縄文集落跡で、国の史跡に指定されています。中央の広場を墓・住居・貯蔵穴が取り囲む環状集落で、栄えたのは縄文時代中期、およそ5,000年前から3,500年前にかけて。

ここは、翡翠の玉をつくる工房集落でした。ヒスイの原石、加工途中の未成品、製作に使った道具類がまとまって出土しており、全国の縄文遺跡から見つかる翡翠製品の多くが、この一帯でつくられたと考えられています。ここでつくられた玉がなぜ多様な形をしていたのかは、縄文勾玉の形に隠された意味で詳しく見ています。

なぜここだったのか。糸魚川市の解説によれば、集落の西を流れる姫川が流域の翡翠を海岸へと運び、東の湿地や汽水域、そして海には食料が豊富にありました。食べるものに困らなかったから、石を加工し、交易する時間を持てた。 立地そのものが、この集落を石の拠点にしたということです。そもそも姫川がなぜ翡翠を運ぶのかは、この石が5億年前にどう生まれたかにさかのぼる話になります。

その翡翠の工房から、翡翠ではないものも出ています。

糸魚川の長者ケ原遺跡では、翡翠だけではなく、約1,000点の黒曜石が出土しています。その多くが、長野県・諏訪の星ヶ塔産とされています。

星ヶ塔は、長野県諏訪郡下諏訪町にある縄文時代の黒曜石採掘遺跡です。霧ヶ峰山塊の北西部、標高1,500メートルの山中に、採掘跡が193か所。縄文時代前期から晩期まで、長期にわたって掘られ続けた鉱山でした。産地推定分析により、ここの黒曜石が関東・中部を中心に東北から東海地方まで供給されていたことが確かめられています。

糸魚川から諏訪まで、直線距離でおよそ100キロ。あいだには北アルプスの山塊が横たわっています。掘る側の土地である諏訪が、黒曜石をどう信仰の対象としてきたかについては、諏訪大社と黒曜石で扱っています。

そして諏訪からは、糸魚川の翡翠が見つかる

話はここで終わりません。

一方、諏訪・霧ヶ峰周辺では、糸魚川産と考えられる翡翠も確認されています。

つまり、糸魚川 → 諏訪 だけではなく、諏訪 → 糸魚川 という、反対方向の物の移動も見えてきます。

これらは、縄文時代に両地域の間で、人や物の交流があった可能性を示す重要な手がかりです。

一方通行ではなかった、という指摘です。

翡翠が信州へ運ばれた、という話だけであれば、糸魚川という産地から石が広がっていったという単純な図で理解できます。しかし逆方向の移動があるとなると、話は変わります。

黒曜石が糸魚川へ届き、翡翠が諏訪へ届いている。どちらの土地の人も、相手の土地の石を手にしていた。そこにあったのは一方的な供給ではなく、双方向の往来だったと考えられます。

時期も重なります。長者ケ原の集落が最も栄えた縄文中期は、星ヶ塔でも黒曜石が掘られ続けていた時代でした。のちに諏訪の地に鎮まる建御名方神の神話が語られるより、はるか以前のことです。

「交換された」とまでは証明されていない

※「翡翠と黒曜石が直接交換された」とまでは、考古学的に証明されていません。

黒曜石が糸魚川にあり、翡翠が諏訪にある。この二つの事実から「翡翠と黒曜石が交換された」と結論するのは、一歩踏み込みすぎになります。物が動いた経路は何段階もの人の手を経ていたかもしれませんし、別の物資を介していた可能性もあります。石そのものが交換の対価だったのか、贈り物として渡されたのか、それを決める証拠はまだありません。

分かっているのは、石が動いたという事実だけ。そこから先は、これからの発掘と分析が明らかにしていくところです。

道具の石と、玉の石

黒曜石は、暮らしを支える「道具の石」。翡翠は、美しい玉を生み出す「特別な石」。

性質の違う二つの石が、遠く離れた土地で見つかる。その事実は、縄文時代の日本列島が、私たちが想像する以上に広くつながっていたことを教えてくれます。

石を扱う立場からの、簡潔な整理です。

黒曜石はマグマが急速に冷えて固まった天然のガラスで、結晶をつくる時間がなかったために割れ口がなめらかな曲面を描き、縁が刃物のように鋭くなります。だからこそ石鏃や石匙の素材に選ばれました。硬さで言えば、モース硬度は5程度。

一方の翡翠は硬度6.5から7、しかも緻密に絡み合った繊維状の結晶構造を持つため、靭性がきわめて高い。割れにくく、欠けにくい。 だから磨いて形にすることができ、穴を開けて身に着けることができた。加工には途方もない手間がかかったはずです。

割れるから使えた石と、割れないから残せた石。二つの石は、まったく違う理由で人に選ばれています。

石を追えば、人が見えてくる

縄文時代には、現代のような道路も車もありませんでした。それでも人々は、山を越え、川を渡り、遠くの土地とつながっていました。

黒曜石を求めて諏訪へ。翡翠を求めて糸魚川へ。そして、その石は人から人へ渡っていったのかもしれません。

そこには、人と人。地域と地域。そして、石と石。をつなぐネットワークがあったのでしょう。

縄文の人々が何を考え、どんな言葉を交わしていたのかは分かりません。文字が残っていないからです。

しかし石は残りました。しかも黒曜石も翡翠も、産地推定という手法によって「どこから来たか」を科学的に特定できます。石は、動いた経路を自分の中に記録している。 だから石を追うと、それを運んだ人の営みが見えてくる。糸魚川の翡翠については、その記憶が奴奈川姫という姫神の物語としても伝えられています。

石を追えば、人が見えてくる。そして、人の交流を追えば、縄文の世界が見えてくる。

諏訪の黒曜石と糸魚川の翡翠。二つの石は、数千年以上前の日本列島にあった「交流の道」を、今に伝えているのかもしれません。

いま私たちが手に取る一つの石も、かつて誰かが山から掘り出し、運び、誰かに渡したものの、遠い延長線上にあります。

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この記事を書いた人

長年の経験から培った豊富な知識を活かし、お客様お一人おひとりに寄り添う石選びをサポートしています。
ありがたいことに、お客様からは「どんなお店よりも応対が丁寧で安心できる」という温かいお言葉をいただくことも多く、それを励みに日々、丁寧な接客を心がけております。こちらのブログでは、天然石の奥深い魅力や、日常への取り入れ方を分かりやすく発信していきます。

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